英語では、既に話に出て、話し手 (書き手) と聞き手 (読み手) が互いに了解している名詞をitで受けることがあります。
この英文を日本語に翻訳するときには、条件節 (if ...) を前に出して訳し上げるのが標準的です。ただし、itを「それ」と翻訳することはできません。
この訳文を読み始めた時点では「それ」が何を指すかが不明だからです。
条件節が短ければ、itの訳を省略することもできます。
しかし、条件節が長い場合はitの訳を省略するわけにいきません。何についての話か明確にしないままでは読者が意味を理解するのに苦労します。
itの内容を明示する
1つの方法は、itが指す内容を明示することです。この場合はitがa moduleを指しているので、モジュールという訳語を繰り返すことになります。冠詞aから分かるように、何のmoduleであるか筆者と読者の間に共通認識がありませんから、「あるモジュール」と翻訳することにしましょう。ただし、単に文頭の「それ」を「あるモジュール」で置き換えるだけでは正しい訳文になりません。
この訳文では、3番目に出てくる「モジュール」がどちらのモジュールを指すか不明です。英文であればthe moduleと繰り返すはずだから、という理由で「そのモジュール」と翻訳してみても (訳1-3)(×) あるモジュールが別のモジュールによって参照されている場合は、そのモジュールを削除できません。 「そのモジュール」がどちらのモジュールを指すか不明なことに変わりはありません。
問題点は、訳文に出てくる「モジュール」がどのモジュールについて述べているか不明確なことです。どのモジュールについて述べているかというのは、つまり主題です。主題が不明確であることが問題であるなら、その主題を明確にしましょう。
主題を明示しました。もともと3番目にあった「モジュール」は文頭のモジュールを指しますが、文頭のモジュールは主題であるため、3番目の「モジュール」そのものを訳文から省略しています。
何について述べているかは明確になりましたが、日本語としてつたない印象があります。どうやら「……は……は」と繰り返していることに原因がありそうです。「は」は限定の助詞であり、この訳文では以下の2段階で話の範囲を限定しています。
- モジュールは
- 別のモジュールによって参照されている場合は
文法上の問題はありませんが、同じ機能を果たす助詞を繰り返すと、文がすっきりしない印象を与えてしまいます。例えば、 (文2) イベントは東京で国際会議場で開催されます。 では助詞「で」を繰り返しています。いずれの「で」も場所を表しており、同じ機能を果たしつつ、話の範囲を「東京」から「国際会議場」に絞り込んでいます。同じ機能を果たす助詞を繰り返さないように書くと (文3) イベントは東京の国際会議場で開催されます。 となります。後者 (文3) の印象がよいことは明らかです。
同じ機能を果たす助詞を繰り返すと、情報が小出しになって分散してしまいます。小出しで分散した情報は、読んでも脳内で情報のまとまり (チャンク) を形成しにくく、結果として文が読みにくく分かりにくくなってしまうのです。
先ほどの「……は……は」と繰り返した訳文 (訳1-4) を、同じ機能を果たす助詞を繰り返さない文に書き換えられるでしょうか。
条件を設けることは限定することであると考えると、以下のように翻訳できます。
ずいぶんすっきりしました。この訳文でよさそうです。
混乱したら出発点に戻る
これとは別の翻訳方法もあります。
助詞の繰り返しを解消する道を探るのも1つの方法ですが、翻訳が混乱したときは出発点に戻るのが一番です。
そもそもの問題は、訳し上げたために主題もitの内容も不明確になってしまったことでした。訳し下ろせば (原文の前から後ろに向かって翻訳すれば) このような問題は発生しません。
元の文 (文1) A module cannot be deleted if it is referenced by another module. を主節とif節に分割してそれぞれ翻訳してみます。
A module cannot be deleted
モジュールを削除できません。
if it is referenced by another module
別のモジュールによって参照されている場合
つなげると以下の訳文が得られます。
→ (訳1-6) モジュールを削除するには、別のモジュールによって参照されていないモジュールでなければなりません。
文脈によっては別の書き方も可能です。
別のモジュールによって参照されていないこと、という条件のほかに条件がなければ、以下の翻訳も可能です。
少し“お化粧”しましょう。
→ (訳1-9) 削除できるモジュールは、別のモジュールによって参照されていないモジュールです。
ただし、削除できる条件を見極めないと誤訳になってしまうので注意が必要です。
なぜitと書かれるか
訳し上げではありませんが、もう1つ別のitの翻訳についてみてみます。
(文2) If you accidentally delete the default setting file, you can recreate it by pressing Recover Default Settings button.
(訳2-1) 誤ってデフォルトの設定ファイルを削除してしまった場合は、[デフォルト設定の回復] ボタンを押すことで再作成できます。
itを「それ」と翻訳するのは変です。この訳文ではitの訳を省略しています。何を再作成できるかは文脈から推測できますが、訳文でもこのitを明示して、設定ファイルを再作成することを明確に書く方法を検討しましょう。
itの指す内容を繰り返せばもちろん明確になります。
ただし、itが指す内容が長い場合は繰り返すと文がくどくなってしまいます。類似するものを対比している場合は特にitの内容が長くなりやすく、簡潔に繰り返すことが困難です。
繰り返し以外の方法を検討しましょう。
代名詞itで書かれる、つまり省略しても筆者と読者が意味を共有できるということは、中心的な話題であるということです。文1でも触れたように、主題に着目しましょう。itで書かれている内容を主題としてくくり出します。
主題が「デフォルトの設定ファイル」ですから、削除の対象も再作成の対象もその設定ファイルであることは明らかです。当初の訳文 (訳2-1) と比較してみてください。