読書ノート: 明日の記憶

1 6月

生きることはつらいことである。

気がつけば、大勢の人間とともに釜の中でゴロゴロゴロゴロとかき混ぜられている。肌と肌がぶつかり、こすれ合って血がにじむ。やがて皮膚は完全にそげ落ち、むき出しになった骨と骨が鈍い音を立てる。それでもまだ釜はかき混ぜられる。

人生の半ばにして社会の中を泳ぐ (すべをじわじわと失っていくとしたら、耐えられるだろうか。

広告代理店に勤める主人公・佐伯に異変が訪れた。会ったはずの人の顔が思い出せない。聞いたはずの名前を覚えていない。その場に居合わせたはずの出来事が記憶に定着しない。物事が佐伯の知覚を素通りし、世界が佐伯を置き去りにして勝手に回転する。佐伯の症状はみるみる進む。戻る道はない。

確かにこの手に人生を握っていると信じていたのに、手の中にあったのはもろい砂像であった。砂像は時とともにさらさらと崩れていく。崩れた記憶の砂山に埋もれ、心がぐらりと傾く。

そのとき、傾いた理性を受け止めたのは、壊れ始めていた己の肉体であった。

心は折れても体は生きようとし続ける。崩れた記憶の中には、一本の芯がまっすぐに立っていた。人が人として生きる芯。その芯が、周りの人を温かく照らす。自分自身が太陽となって輝く。

生きることはつらいことである。それでも、自分の芯を信じて生きてみたい。佐伯のように。

【書誌情報】
書名: 明日の記憶
著者: 荻原 浩
出版元: 光文社


有限会社トランスフロンティア
名古屋で通学制の翻訳講座を開いています。詳しくはスクール案内へ。
理工系専門書、IT・電気工学・その他分野の英→日翻訳を承っております。2001年創業以来1000件以上の翻訳実績。お見積もり・お問い合わせはこちらからどうぞ。