読書ノート: 多数決を疑う

4 4月

日本は民主主義国家である。そういうことになっている。なぜなら、議員を選挙で選び、その議員に立法 (と行政の一部) を任せているからだ。議員は、有権者が多数決で選ぶ。多数決は一応「合理的」な方法として国民に受け入れられている (ように見える)。

その多数決は、本当に有権者の意思を反映しているだろうか。反映しているなら、あの国会前で渦巻くデモは何なのか。

選挙で当選すると自分の主張がすべて支持されたのだと言い張る政治家がいる。その議員に投票した有権者は、本当にその議員の主張をすべて認めたのか。

議会で多数を占める政党が数の力で法案を通すことはないだろうか。適用範囲の狭い法案を最初に成立させておき、後から数の力で法律の適用範囲を拡大していくことはないだろうか (俗に言う「小さく生んで大きく育てる」やり方だ)。

果たして、選挙は多くの人の意見を集約できているのか。少数意見はどのように扱われているのか。国は本当に人々の意見を反映して動いているのか。人々は本当にこのような社会を望んでいるのか。

多数決は、国会だけでなく、地方議会でも、学校の生徒会でも学級会でも採用されている。私たちは、小学校に入学した直後から多数決の中で生きてきた。多数決の中で成長し、多数決の中で大人になり、今でも何の疑問も持たずに多数決に身をゆだねている。

果たして本当に多数決で物事を決められるのか。

実はこの世界には、多数決以外にも意見を集約するためのルールがある。「投票で「多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」のことを集約ルールという」(p.10)。多数決は、その集約ルールのひとつに過ぎない。

多様な意見を、誰もが納得できるひとつの「民意」として集約できるルールがあれば理想的だが、残念なことに、そのようなルールは存在しない。民意というものが「本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。…(中略)…私たちにできるのは民意を明らかにすることではなく、適切な集約ルールを選んで使うことだけなのだ」(p.49~50)。

だとすると、選挙とは何なのか。

ここで話はルソーの社会契約論に及ぶ。

「私的領域では自分のことだけを考えるのが許容されても、公的領域ではそうではない」(p.76)。「自分を含む多様な人間がともに必要とするもの」(p.76) に法案が「適うか否かを調べるためには、構成員全員が参加する集会で、各自が辿 (たどり着いた判断を投票で表明して、多数決で判定する」(p.80)。

多様な意見を集約するために必要なのは、この考え方であった。至極単純で当然のことだが、現代社会ではすっかり忘れられている。議論は往々にして利害の対立に終始し、あるべき姿を描くことがない。ルソーが「社会契約論」を著したのは250年も前であるが、いまだに私たちはルソーから学べていない。

私たちは、多様な考えがぶつかり合う現代に生きている。ぶつかり合いの末に、ときに命さえ奪われる現代である。この本を読まずしてこの現代を泳げるだろうか。タイトルに引かれて手に取った本であるが、大変読みやすく、またとない社会的選択理論の入門書である。

【書誌情報】
書名: 多数決を疑う ― 社会的選択理論とは何か
著者: 坂井 豊貴
出版元: 岩波書店 (岩波新書)


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